助常林道を行く

 
 2009年5月16日13時15分、「冬住林道」をチャリ共に走破した。
その道は空に近く、運が味方をすれば太平洋を望む事も出来るという。だが、晩春のうす曇りのため、彼方の海を見る事は叶わなかった。
しかし、私の頭上は何時も明るく、常に空を感じる開放的な林道であったと思う。
そう思えるのは、昼なお暗い八木沢の、森と化しつつある廃道を上り続けた後だったからかもしれない。

 写真は「冬住林道」の終点「助常林道」との合流地点である。
写真右側を上って行けば「助常林道」の終点に辿り着くはずだが、今の私にそれを確認する気力も体力も残ってはいないのである。
私の望みはただ一つ、出来るだけ長く、チャリに身を委ねて山を下り行く事なのである。
しつこいようだが、私にとって山チャリは下り専用なのである。(笑)

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 さて、私とチャリの道行きはまだまだ続くのである。
「冬住林道」の終点は新たな「助常林道」の始まりを意味する訳で、この場所から再び高の倉ダムサイトを目指す試練が始まるのである。  下の地図を御覧頂きたい、ゴールは未だ遥か遠く、そして険しいのである。  
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 13時21分 森の中へ
 冬住林道を離れ助常林道にその名を変えた道の先には七つのヘアピンカーブが待ちうけていた。
私は後輪を滑らせながら、言うなればスキー大回転のように、七つの旗門を駆け抜けていった。
まあ、それは脳内イメージであり、実際はブレーキシューが熔けるのではないかと思う程のブレーキ掛けまくりでの降下ではあったけど・・・。
傾斜が緩慢になり、ほっとした時、道はすでにその様子を変えていた。
頭上近くあった空は遠く狭くなり、行く先は高い木々に縁取れている。
森に入ったのである。  
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 13時23分 名も知らぬ川
 
 景色に乏しい単調な道を南を目指して走って来たが、此処に来て両脇の木々は後退し、少しだけ空の巾を広げてくれた。
 今下りてきた道には、それと並ぶ川があり、等しい高さとなった今両者は出会い、道はその川を跨ぎ、再び並走するのである。
川と並んだ道は見通しもよく山中とは思えぬ穏やかな佇まいを見せてくれる。
緩やかなカーブを描きながら遥かに続く道、大変好ましい。(笑)
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 13時27分 森の中の橋
 
 静かに寄り添うがごとくあった川が、ここに来て突然その方向を変えた。
切り込むように道先に回り込んだ川は傾斜を増し、その先へと急ぎ始めたのである。
 道もそれに倣い、バウンドするように下って行く。
防護柵のある橋が見えてきた。  
 長さにして3m程の橋には「ひがしさかいかわ」の銘板が付いている。
ここで初めて、共に下り来た川の名前を知る事となった。
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 13時32分 助常林道最大の難所?
 
 道はタイトな坂へと続いて行く。
見通しの悪さに、進路を内端に取れば、ささくれだった大きな石が容赦なくタイヤを痛めつける。
山中でのパンクだけは絶対に避けたいと、必死でブレーキレバーを握り続ける。
 ロックしない程度に減速したいが、握りを緩めた途端に加速し始める。
動きはぎこちないが、下ろし金のようなこんな場所でコケたくはないし、まして、谷へ落ちる事など、考えたくも無いのである。

もし、下流側から上るならば、ここが、この道最大の難所にとなるかもしれない。  
 下の地図をご覧頂きたい。
狭くなった等高線の上を行きつ戻りつする細い破線が、今チャリと共に辿る道なのである。
山肌に刻まれたジグザグの線は標高差60m下の谷を目指している。
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 下の地図をご覧頂きたい。
この九十九折の坂道には川を跨ぐ所、つまり橋が一箇所しか記されていない。
しかし、周りに配置した写真の通り、橋は上流側から「堺沢三号橋」「堺沢二号橋」「堺沢一号橋」と三箇所あったのである。
 残念な事にその位置を特定できないのはボンクラ所以であるが・・・。
 ただ、「ひがしさかいがわ」は「東堺川」で、先に出会った橋は「堺沢四号橋」であろうと推察されるのである。
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 13時38分 天然の石畳
 
 九十九坂を過ぎてからも、道はまだ緩やかに下っている。
ふと、足元を見て気が付いたのだが・・・。
石と云うか、岩と云うべきか、土ではないよね。
岩を削って道としたのか、ちょうど良い具合に平らな石がそこにあっただけなのか・・・
 まあ、登山道では普通にあるけど、林道で見るとは思わなかったので。
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 13時39分 森を抜けて
 
 森の中を走る事約20分、出口が見え始めた。 木々の隙間から見えるのは新田川である。ここまで並走してきた東堺川は本流の新田川に合流し太平洋を目指すのである。
 対岸の上部のガードロープが分かるだろうか、東北電力の管理道路である。  
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東堺川と袂を割った助常林道はここからしばらくの間、新田川に沿って下流を目指す事となる。
 新田川渓谷と称されるこの辺りは岩肌も露な深い谷となり、しばらくの間断崖沿いの道となる。
写真は東堺川と新田川の合流を撮ったものである。
 新田川は相馬郡飯舘(いいたて)村の無垢路岐山(むくろいやま)を源とし、南相馬市原町区市街を通り太平洋へ注ぐ、 流路延長62.9kmの二級河川である。  
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 13時42分 対岸の道
 
 写真は対岸の東北電力の管理道路である。
しかし、それは現在の呼称で、今を遡る事50年前それは「原町森林鉄道新田川線」と呼ばれていたと云う。
 でも・・・。
当時からこの状態ではなかったよね。
だって、道っていうか、これはまるでテラスのようだもの・・・。
たぶん、この道の上流にある水力発電の取水口管理の為、林鉄廃止後に拡幅工事をしたのだと思う。
ちなみに、このような拡幅工法を「張出梁式道路拡幅工法」とか、「キャンティー工法」とも云うらしく、  地形が厳しく切土や盛土をする事が困難な場所でも容易に拡幅出来る工法であるらしい。
でもね、その工法でも谷側の基礎が浮いてるんですけど・・(汗)

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 13時44分 落合橋
 
道の先に橋が見えた。
「落合橋」である。この林道で一番大きく、そして立派な橋である。
親柱の銘板も比較的新しいのは、近年補修工事が施されたのだろう。
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写真の左端は落合橋から下流を写したものである。
水量は少なく、静かな流れである。
写真中央は同じ場所から上流側を写したもので、件の管理道路と橋を見ることができる。
拡大写真の赤矢印は新田川を、黄矢印は比曽川を示している。
このように各支流が集まる場所であることから、「おちあい」と名付けたのだろうか。
写真の右端は橋を渡り対岸に出た所で写したもので、管理道路の入口である。
車の乗り入れは遠慮してねとの御教示ではあるが、対岸から見えたあのテラスの状態では、たとえゲートが開放されていても車を入れる事は御遠慮申し上げます。
でも、チャリなら・・・。
行く。
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 13時50分 新田川渓谷沿いの道
 落合橋を渡り、道は新田川の南沿いとなった。
道は平坦となり、日陰である事から鬱々とした雰囲気である。
だが、この道こそ嘗ての原町森林鉄道そのものであり、原ノ町駅を目指し貨車が連なり走った場所なのである。



気分は森林鉄道の機関士でチャリを漕いでいる(笑)
前方に切通し、そして橋が。
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 橋の名は「だい二とりきばし」と打ってある。
ここまでの橋の銘板はすべて「・・・はし」だったけど、違いはあるのだろうか。
 苔生し、過ぎた歳月を偲ばせる片方の親柱には竣工の銘板。
「昭和三十五年十二月竣功」って、私より若いの?
苔生した己の姿を想像する(涙)
 橋脇の沢には鉈で打ち下ろされた枝が集まっていた。
上流から流れ落ちてきたのだと思う。
名も知らぬ沢の上流にも、人の手が入っているのだろう。
 「第二取木橋」を渡り、振り返っての一枚。
原町森林鉄道は昭和34年に廃止されたと云う、この橋は、輸送の主役が鉄道からトラックへ移行した時代の象徴と言えるだろう。
第二取木橋から50m程進むと、第二取木橋と姿かたちがそっくりな橋と出会う。 「取木橋」である。
下の地図をクリックして見て欲しい。
地図に記されているのはこの橋であり、先程渡った「第二取木橋」は地図にはない。
何故?
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 写真にはないが、この「取木橋」の親柱には「昭和三十五年十二月竣功」とあった。
まさに「取木橋」と「第二取木橋」は双子の橋なのである。
 取木橋より50mは進んだろうか、三たび、橋の出現である。
銘板も無く、その名を知る事はできないが、佇まいから取木兄弟と同時期に掛けれらた橋だろう。
この橋も地図にはない。
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 名の無い橋より50m、懐かしい?案内板の建つ場所に到着した。
この場所こそ、チャリによる「助常林道」の走破となるポイントなのである。
このページのトップにある地図を思い出して頂きたい。
県道62号線から北上する助常林道の赤い破線はこの場所までであり、今まで走って来た赤の実線が、ここで一本に繋がったのである。

※ここでいう"走破"は県道62号から「冬住林道」分岐地点までをいう。
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マウスを乗せると画像が変わります。↓  冬住林道との分岐地点から約7km、チャリの恩恵を受けた下り道も終わりが近づいてきた。
写真は我がサイト馴染みの「原町森林鉄道新田川支線」と助常林道との分岐地点である。
 写真左のダブルトラックの先を行けば、当時を偲ばせる鉄橋群や隧道群が静寂の中にあるだろう。
想いはつのるが今進まなければならないのは右側の道である。
 ここより先、標高340mのピークを目指し、距離2.1kmの上りが始まるのである。
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 14時02分 再び、頂きを目指して・・・。
 
 写真は原町森林鉄道との分岐点から250m程上った地点で写したものである。
いわゆる「キロポスト」と呼ばれている物だと思う。
この道は既に2回通っているのだが、今回初めて目にしたのである。(さすがボンクラ)
"二五○○"と読めるが、その意味する所は不明である。
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 標高は250m地点。
地図には無い林道と思われる入口に立った。
一本の鎖で閉ざされた道の先は広く、何より新しい。
機会があれば覗いてみよう。
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 時刻は14時21分。
高の倉のデポ地を出発してから既に6時間程経過した。
体力もそろそろ限界に来ているらしい。
名も知らぬ林道入口を過ぎ、ヘアピンカーブを曲がったその後、身体に異変が起きたのである。
両足の大腿部が攣ってしまったのである。
まさしく棒になった両足は一歩も前に出る事も出来ず。かといって道に座り込む事も出来ない状態になったのである。
さすがにこれには参った。陽のあるうちに帰る事が出来ないのではないかとさえ思った程である。
チャリを立たせたまま治まるのを待っていたが改善の兆候は無く、ならばと再び歩き始めなんとかここまで来たのである。
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記念撮影をした冬住林道のカーブミラーとは余りに違いすぎる。
助常林道は生きている道であるのに、何も映すことの無いカーブミラーはなんとも寂しく、辺りの雰囲気を暗くしている。
そして、ここも。
伐採後の山は殺伐としていて、空が明るい程、剥き出しの土が際立つ景色となっている。
あと10年もすれば幼木も育ちこの景色を変えるのだろうか。
チャリで下るには最高に楽しい道ではあるが、今はひたすら押し続ける厳しい道である。
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前の写真に写っている崩落地点。
これ以上崩れない事を祈る。
 伐採地のカーブを上り切った先で、ペンキで印の付いた木が目に付いた。
木にはペットボトルが括り付けられている。
何かと近づいて見ると・・・。
 黒っぽい液体と・・、ウェッ。
スズメバチがいっーぱい。スズメバチの捕獲罠のようであるが、本当の所は分からない。
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 時刻は14時35分。
助常林道最後のピークを過ぎた。道は緩いアップダウンとなってはいるが、チャリを押して上る坂はもう無いのである。
写真はチャリに取り付けたハンディーGPSである。標高は334mを表示している。この数値はほぼ正確といって良いだろう。
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両足大腿部が攣った時はどうなることやらと思ったが、この先は高の倉ダムまでずーと下りである。
再び我がロッキー号の出番となるのである。「帰れる」と確信した。
小休止がてら辺りを見回すと、本日二度目となるキロポストを発見した。
今回は「五○○」と読める。前のキロポストが「二五○○」であったのだから、2000減っている事になる。
どうやらこのキロポストは助常林道の起点からの距離らしい。実測はしていないが、地図上で計測すると県道62号線からこの辺りまでの距離は 530mとなる。助常林道のゲートは62号線から少し入った場所にあるので500mは正しい気がするのである。
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 14時45分 「助常林道」ゲート
 「500」のキロポストから2分で下りて来てしまった。
チャリはありがたいの一言である。
写真は助常林道のゲートであるが、このように閉められているのを見るのは初めてである
前回、前々回とゲートの記憶さえ曖昧な程なのであるから・・。
特に眼を引いたのはバーに巻きつけられた比較的新しい鎖である。何か強い拒否の意思を感じてしまうのは私だけだろうか。
しかし、言い訳に過ぎないだろうが、私はこのゲートを無視してこの林道に入ったのではないのだと・・。
まあ、出るにしても入るにしても、結局ゲートを通らなければならないのである。
 
 14時45分 高の倉ダムを目指して
写真は助常林道のゲートを過ぎてから撮ったものである。
えっ!ここにもあるの?
この車止めも今回初にで見る物である。道理で、一台の車にも出合わなかった訳である。もちろん、人も。
この厳重な進入禁止の措置の理由は一体何だったのか、今も不明である。
車止めの先は県道62号線(別名:険道62号線)である。半分に切られた鳥居も見える。
県道62号線に出た。
久しぶりの舗装道路である。
が、ご覧の通り県道とは名ばかりの離合も叶わぬ狭小道路である。
側溝さえない為、湧き水は道路を流れている。
緩いカーブを描くその脇に、私の好きな薪ストーブのある作業小屋が見えてきた。(笑)
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 作業小屋の道を挟んだ向かい側に有刺鉄線を巡らした敷地がある。
敷地内には一体何があるのだろう。それとも、あったのか?
到底、一般の人家とは思えない程の厳重な守りである。
 道沿いの石垣はそれ程珍しい物ではないが、この石垣の上にも有刺鉄線を巡らしたフェンスが建っているのだ。
有刺鉄線の謎の場所の謎は解けぬまま、チャリは軽快に先を急ぐのである。
やがて道はY字路になる。
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 写真はY字路を過ぎて、振り返って撮った物である。
カーブミラーがその役目きちんと果たしている道が、今下ってきた県道62号線で、 森の奥へ続くダブルトラックは高の倉ダムの水源である水無川の源流へと誘う道である。
機会があれば行って見たい道の一つである。(待っててね)
 Y字路を過ぎ、チャリは素晴らしいスピードで下って行く。
チャリが軽快であればあるほど、先に進みたい気持が強くなるのだが、今日はなるべくしっかりと 辺りを観察しながら行こうと思うのである。
 Y字路から下流へ向かって約400m、鎖で進入を拒む道と出会う。
頂上付近にテレビ局各社の中継所が建つ山、「二ツ森」への入口である。
むかーし、私はバイクでこの道を駆け上り、テレビの中継所まで行った事があるのだ。
原町市内に生まれ育った私は、西を仰ぐ時、常に目に入るこの山を「国見山」だと思い込んでいたのである。
しかし、国見山を市内から望もうとする時、西ではなく、南西の方角を向かなければならない事を知ったのは、 この山の頂に立った後の事なのである。
今、思い起こせば、この「二ツ森」登山が私の単独山行の始まりなのである。
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 テレビ中継所入口から約2.2km。
やっと車の離合に気にしなくて済む巾の道に出たのである。
写真は高の倉ダムに注ぐ水無川を跨ぐ橋である。
デポ地まで、あと僅か1.2kmを残すだけとなった。
 写真はダムの傍らに建つ神社である。
この神社も嘗てはもっと低い場所に建っていたのを、ダム建設により移設されたものかもしれない。
まだここにダムが無かった頃、当時住んでいた町内会が催した、この川原での芋煮会(いもにかい)に、私は両親に連れられて来た事があった。
忘れ去られたような社の風景に、ふと、そんな事を思い出したのである。
満々と水を蓄えた高の倉ダムを一望する。
デポ地は近い。
そして、私の拙い旅も終わりを向かえるのである。
 
 15時06分 旅の終わり
 今日の朝、体調に不安を感じながら、チャリに跨りダムを下って行ったのは8時31分の事であった。
それから6時間30分を費やして、再びこの地へ戻り着いたのである。
 年の初めから悩まされ続けた原因不明の眩暈に、行きたくとも行けない不満と、行きたい時期を逸する不安が せめぎあい、結局「行きたい」という欲求が今日を後押ししたのである。
 旧八木沢峠を訪ねたいという思いからエスカレートして、ならば冬住林道も、ならば助常林道もと机上の夢は広がるばかりで、 実際の所、全てが不安を抱えたままの見切り発車であった。
 故に、デポ地で待つ愛車が見えたこの瞬間、私は心底嬉しく、正に安堵したのである。

 「八木沢の峠を越え、冬住と助常を行く」と銘打ち、高の倉ダムを起点に県道12号線で旧八木沢峠を目指し、冬住林道で610mのピークを跨ぎ、助常林道を駆け下り、道62号線経由で 再び高の倉ダムへと帰るという、一周35kmの山間ツーリングのレポートはやっとここで終わりを迎えたのである。
 
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